吾輩はトトロである。名前はまだない。

 

吾輩、は言ってみただけである。トトロはそう呟いた。頭の中で。

 

 

吾輩はトトロである。

 

 

 トトロがトトロであることを自覚したのは、それはつまり自分自身が「生まれた」と感じた時という事であるが、それはトトロが膨張した瞬間であった。

その一瞬、トトロにはすさまじい風とともに何かが吹き込まれた。その何かは決して重くはないが、確かな密度があるものであり、トトロのからだの隅々にまで行きわたった。正確にいえば、その瞬間に初めてトトロは自らのかたちを自覚したのであり、その瞬間に生まれた自分の体と出会ったのだ。

そして同時に、それまでの自分がぺらぺらの皮と、中央の筒だけであったことを理解した。

 トトロは生まれた。しかし未完成であることを知っていた。

背中がぱっくりとあいているのだ。自分の体を形作る、何かをつめたその穴がまだあいているのだ。これではつめ物が落ちてしまう。

そうなれば自分はまたぺらぺらになってしまう。そう思うやいなや、その穴がふさがれ始めた。ちくちく、ちくちく、音はしていないが、どういうわけかそのような感覚が背中を走る。ちくちく、数秒その感覚が続いた後、ぽんっと背中を叩かれた。

背中を叩いたその誰かは、何か言葉を発していたが、トトロはその意味を理解できなかった。

そしてトトロはくるりと向きを変えられ、その誰かに向いあった。誰かは手早くトトロの首元にひもを縫い付ける。

ひもの先には丸いどんぐりがついていた。どんぐりを2、3度引っ張られる。そしてトトロはもちあげられ、宙に浮いたままくるくると回され、その全身を眺められる。大丈夫だよ、とトトロは思った。そして驚いた。トトロは自分が完成していることを理解しており、そのことに自分自身で驚いたのだ。

トトロの体は降ろされたが、今度は全身のいたる所をひっぱられはじめた。両耳、右のひげ3本、左のひげ3本、右手、左手、そしてしっぽ。

大丈夫なのに。トトロは再び思うが、今度は驚かない。背中でだけ体につながった首をぱかぱかとあけられ、中の空洞の筒を除きこまれる。

そして首がしめられると、ついに、目の前の誰かは満足そうに、にこりと笑ってトトロをなでた。

ほら、大丈夫でしょ。トトロは思い、とても満足した。

 

 

 

 

生まれた時の記憶は、どんどん薄れていくものだ。トトロだって例外ではない。

トトロのそこからの記憶はとびとびである。自分と同じモノがたくさん並べられている記憶。

そこから分けられ、自分ともう一体とが箱につめられた記憶。箱があき光がさしこんだ瞬間、まぶしい、そう思った記憶。

そしてそのしばらく後に、とてもがっかりした記憶。

 

トトロはとても残念に思っていた。そして自分達を並べた店員を恨み、憤慨していた。なぜ横にならべないのかと。

このおもちゃ屋に納められたトトロは2体だけであり、店の規模を考えれば、十分2体を横に陳列できたはずなのに。
2体のトトロは縦に並べられ、自分はその後ろを陣取ることになってしまった。お客に見てもらうことも、手にとってもらうことも出来ない。

それどころか店の様子を見て楽しむことすら出来ない。前に並べられたもう1体がお買い上げされない限り、出来ないのだ。

トトロに出来ることは、前のもう1体の背中を眺めながら、聞こえてくるお客の声を聞き、その様子を想像することだけだった。

横にいる小ぶりの青いトトロは、たくさん拡げ並べられている。トトロは横目でそれを見、羨ましく思った。

 

トトロはこの店の中で一番大きなぬいぐるみだった。

大人の腰から首くらいまでの大きさがあり、小さな子供では腕が回らず、抱えきれないこともあった。しかしその体の中には空筒が埋め込まれ、首をあけると小物を入れられるようになっている。そのため中のつめ綿の量は少なく、大きさのわりに軽いので、子供も抱えきれずとも持つことが出来る。こんなに便利に出来ているのに、とトトロは思う。子供が喜ぶよう、役に立つよう考えつくされ作られているのに、どうも大きすぎるだの、首があくのが不気味だのと、横の小さな青トトロばかり買われていく。

せめて1体、自分の前のトトロが早く買われないかなと、トトロはいつも思っていた。

 

隣の青トトロが次々いなくなる中、トトロ達を気に入るお客が居ないわけではなかった。

トトロ達がこの店に来た数日後、2人の女の子が来店し、トトロ達の前でえらく騒ぎはじめた。ゴミ箱だ!トトロのゴミ箱だ!2人は悪口にしか聞こえない感想を大きな声で叫ぶ。

トトロはなんてやつらだ、と心の中で叱責した。しかしえらく嬉しそうに話すので、悪口ではなく誉めているつもりらしい。

前にいるトトロの首がぱかぱかと開けられる。いいなあ、これ欲しいなあ。こんなに大きいのないよね。ひとしきり騒いだ後、2人は帰って行った。

その日はそれで終わったのだが、その後、その内の1人がトトロ達の前によく現れるようになった。

前のトトロをなでたり、首をあけたりしてしばらく遊んで行く。かわいいなあ。欲しいなあ。でもどんぐりは邪魔だなあ。

後ろにいるトトロは、どんぐりは邪魔じゃない、と心の中で反論した。

 

前の一体がお買い上げされた。トトロは嬉しかった。しかし、少し心配になった。

なぜならば、お買いあげしたのが良く来るあの女の子ではなかったからだ。女の子はお気に入りの前のトトロが居なくなって、悲しむのではないだろうか。トトロはとても心配になった。前の一体が居なくなり、店の中はとてもよく見えるようになった。隣の青トトロはほとんどいなくなり、トトロは広々と過ごすことが出来た。それでも楽しくは過ごせなかった。

こっち!こっち!と、聞きなれた声が聞こえて、トトロはどきりとした。女の子が家族の手をひいて走ってくる。トトロはどきどきする。

女の子がトトロを見て、あっ!ひとつ売れちゃった!という。トトロはどきどきして泣きそうになる。

しかし女の子は満面の笑顔でトトロを棚からひっぱりだす。

よかった、ひとつ残ってて!女の子に抱えられながら、トトロはどきどきしながらとても安心する。

そうか、前に居たのじゃなくて、自分でもよかったのか、ととても安心する。

ほんの一瞬、後ろに並べられて良かったなあと思うが、すぐにそんなこともないか、後ろ嫌だったし、と思いなおす。

そしてあることに気づき青ざめる。女の子がトトロをゴミ箱と言っていたことを思い出したのだ。自分はごみを入れられてしまうのだろうか。

しかし、女の子がとても嬉しそうにトトロを抱えるので、紙ごみくらいならいいか、と自分を納得させることにした。そして、お買いあげされたことを心から喜んだ。

 

トトロをお買い上げした女の子は5歳らしい。正確にはお買いあげしたのはその子の両親、と一緒に来ていた祖母であるのだが、とにかく5歳らしい。

トトロよりも5年も長く生きているというが、だいたいトトロと同じ大きさである。ちびめ、とトトロはよく思っていた。

女の子の家は橋家というらしい。橋家に来て数日間は、首をあけられる度にゴミを入れられるのではないかと心配していたが、それは杞憂に終わった。ゴミ箱というのは単に呼び名であって実際にごみを入れるつもりはなかったらしい。ばかめ、とトトロはよく思っていた。

橋家に来た初めの日から、トトロはトトちゃん、と呼ばれるようになった。トトロのことを可愛く言っているのか、ふん、とトトロは受け流していた。

数日たち、数週間たち、トトロはその間ずっとトトちゃんと呼ばれ続けた。そしてある日はっと気付いた。自分はもはやこの先、トトロとは呼ばれないのだということに。トトロは、トトちゃんという名前になったということに。

 

 

吾輩はトトロである。名前は、もうある。

吾輩、は言ってみただけである。トトちゃんは頭の中でそう呟き満足した。

 

 

 

 

 

お買い上げ後、20年である。ちびの女の子はすっかり大きくなってしまった。

トトちゃんはそんなには変わらないのだが、それでもいろんなことがあった。まずひげとどんぐりがなくなった。それはかなり前のことで、言ってしまえばお買い上げ後すぐである。女の子がまだかなりのちびだった時、両方ともを切ってしまったのだ。抱くときに邪魔だからといって切ってしまった。

この乱暴者め、と忌々しく思ったが、女の子の粗雑な性格を、あまり日を重ねぬうちに理解していたので、早々に諦めがついた。

どんぐりはしばらくおなかの筒の中に入れていたが、いつのまにか無くしてしまった。

 

 20年たったが、その子は変わらずトトちゃんと一緒にいた。自分と同じ大きさでなくなったことを、あまり寂しいとは思わなかった。

大きくなってくれた今の方が、自分を落とすこともなければ、ひょいひょいと動かしてくれ、それはとても心地よいことだったからだ。

大きくなったら一緒にいられなくなる、と思ったことはなかった。その子が自分を手放そうとすることは、20年間のうちに一瞬たりともなかったからだ。ただ、大きくなったら一緒にいられる時間は減るのではとは思っていた。しかしそれも違った。その子は大きくなって仕事もするようになったが、相変わらずすぐに帰ってきては家で自分を抱えている。休みの日は出掛けもするが、まる一日抱えている日もなくはない。

 トトロ仲間も増えた。その子はトトロがとても好きなようで、いろんな他のぬいぐるみや、置物をお買い上げしてきた。

さらに自分でもトトロのぬいぐるみを作ってしまった。しかしもちろん、トトちゃんという名前は自分だけであり、他のトトロにも、それぞれの名前がつけられていった。トトちゃんは一番前から橋家にいるトトロであり、一番大きいトトロでもある。

 

 トトロ達は一日の大半をその子の部屋で過ごしている。トトちゃんもしかりである。夜は同じベッドで眠る。

本当は専用のベッドが欲しいのだが、そうなるときっと自分の大きさ通りの小さなベッドになってしまうので、それは心の中にしまっておく。

今の大きなベッドでごろごろするのが好きなのだ。皆でごろごろするのは少しせまいが、くっついているのは割と嫌いじゃない。

そして朝を迎え、その子が起きると、トトロ達も起きる、というか起こされる。

おはようと声をかけられながら、トトロ達は順に起こされ、ベッドの上に並べられる。

今日も一日楽しくね、とぽんぽんと頭をたたかれ、その子は部屋を出ていく。その後は自由時間だ。

 

 その日も同じようにその子は部屋を出て行った。天気のとても良い日で、カーテンと窓が開けられ、ぽかぽかの日差しと心地よい風が入ってくる。

あったかいなあ、と思った瞬間、トトちゃんの体がかたむいた。あっあっと思っていると同時に、他のトトロ達もあっあっと慌てているのがわかる。

とても短い時間のはずだが、なぜかしらゆっくりと感じる。ベッドの上から床へと、顔からゆっくりと落ちていく。

首があき、おなかの中の筒の入り口が下に向くように床に向かう。そしてそのままぺちゃんと床に着地した。

あわわわ、大丈夫?と他のトトロ達が心配そうにこちらを見る。首があいてしまったので、首と体でX字バランスをするような体制になってしまった。

とても不格好だ。しかしお買い上げ後20年もすれば、こんなことは一度や二度ではないわけで、大丈夫だよ、と他のトトロ達にしっぽを振ってみせた。

そして、落ちてしまったではないかばかめ、ベッドの端に置きおって、と仕事に行ってしまったあの子に毒づいた。

 

 起き上がろうとすれば起き上がれるのだが、少々エネルギーを使う。どうしようかな、と考えているうちにも、ぽかぽかの陽気は差し込み続ける。

床の上まで日差しは届き、自分の背中を温める。床のひんやりした冷たさとの陽の温かさとがとてつもなく心地よい。

どうしようかな。もう一度だけ思うが、まあいいか、とすぐに考えることをやめる。このままごろんとしていることにする。

どうせあの子は帰ってくるし、そうしたらどうしたって起こしてくれるのだから。そうじゃないわけがないのだから。

そのままくつろぎ始めた自分の様子を見て、他のトトロ達も心配することをすっかりやめてしまい、それぞれが楽しく過ごすことを始めた。

 

 トトちゃん!帰ってきた部屋の主はすぐに駆け寄り、ごめんねごめんねと言いながら、ベッドの上に戻してくれた。

本当にばかめ。ふくれて見せたが、かいがいしく世話をしてもらうことに気分は悪くない。そうそう、ちゃんとほこりも払って、なでてよね。

仕事帰りのその子に、とても満足した顔を見せてやった。

 

 

 

 

 

 吾輩はトトロである。名前は忘れてしまった。

吾輩は言ってみただけであるが、名前は本当に忘れてしまった。名前を忘れてしまったのは、誰も呼んでくれなくなったからである。

しかし別にそれは構わないのだ。あたたかいおうちも、おふとんも、食べ物も、飲み物も、テレビも、借りてきたdvdもたくさんある。

必要なものはそろっている。

 でも何かが足らない。

何も困ったことなどないはずなのに、とても困っている。何も困ったことなどないはずだから、どうすればいいのかわからない。

とてもとても、困っている。

 

それは、寂しいんだね。

 

誰かの声が聞こえた。

 

 トトロは、寂しかったことがないから、わからないんだね。

 でもおまじないをしておいたから、大丈夫だよ。

 

さみしくないように。

ずっとかわいがってもらえますように。

 

その声は、むかしむかし、海の向こうの国で、背中の向こうから聞こえてきた声だった。

ぽん、と背中を叩かれた気がした。

 

 

 

 眼が覚めると、なぜかひとりで寝ていた。夢を見ていた気もするが、あまり覚えていない。眼をぐるりと動かして、時計を見ると、夜中の3時だった。

少し離れた所に、ベッドの主が背中をむけて寝ている。またか。

いつも寝る前と寝始めはしっかりと抱えられているはずなのに、起きると必ずほうりだされているのだ。

あきれながらも、ごろごろと転がり、その子の背中にくっついた。もう一度眠ろう。くっついたまま眠ろう。そしてまた朝を迎えよう。

そしてこの子に起こしてもらって、また何度も名前を呼んでもらうのだ。だから、しかたがないから寝像の悪さはおおめにみてさしあげよう。

 

その後見た夢は、くっついたその子と、他のトトロ達と、皆でホットケーキをたくさん食べる夢だった。

 

 

2012.5月 作